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八高線、脱線転覆に気づかず走る運転士(過去の痛みVol.7)

八高線脱線事故の写真

八高線の写真尼崎の脱線事故より急カーブ

八高線は東京の八王子と群馬の高崎をつなぐJRで現在も利用されています。1947年(昭和22年)2月25日の朝、埼玉県東飯能駅を出発して高麗川駅へ向かっていた当時の機関車・C5779号機に牽引される、高崎行きの6両編成は、すし詰め状態で定員の3倍の2,000人近い乗客が乗り込んでいました。高麗川駅まであと1キロというほどの地点に急勾配20‰(パーミル)の下り坂があった…。

八高線脱線事故の写真

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急ブレーキでダメ押しする23歳の運転士

2,000人近い乗客を乗せた列車は重たく、急こう配の影響で加速し、制限55キロカーブを80キロ近い速度で入りかけた。ブレーキを稼働させるも、重たさでうまく稼働していなかった。カーブ半ばで、渾身の強いブレーキを入れたが、それがかえってダメ出しとなり、強い遠心力を助長し2両目と3両目を繋いでいた連結器が引きちぎれ、後部4両がカーブから転落した。5メートル下の麦畑で大破した客車はバラバラに砕け散った。粉砕した車両と土煙の下では、乗客たちが瀕死の状態で横たわっていた。近所の人が駆け付けたが、下敷きの乗客を助けようと、がれきを動かす八高線脱線事故の慰霊碑写真と他の乗客が『痛いやめて』と叫ぶ。埋没してる乗客に手を差し伸べると、逆にがれきの中に引きずりこまれる惨状だった。死者184人、負傷者495~497人。72回忌を迎えた慰霊碑前には生花がささげられており、近所の方々や遺族の風化させたくない想いを受け止めることができた。八高線事故は戦争を生き抜いた人々を襲った悲惨な鉄道事故。車両の整備不良や未熟な運転技術が要因とされ、人為的要因もあった。事務局を代表して黙祷をさせていただきました。

八高線脱線事故の写真次の駅まで気が付かない…

運転士は次の駅に到着して、駅員から知らされて初めて事故を知った。裁判では検察側は、『運転士が急ブレーキを踏んだのが事故の原因』だと主張したが無罪になった。そもそも23歳の運転士に、いつもより重たい車両の挙動について予見する力量は存在していなかった。人間の経験は浅ければ単純な予見を見逃しがちだが、経験豊富な人間もミスは犯す。このジレンマを『教育』という形で抑え込み昭和、平成と事故を減らしてきた。しかしながら運転士教育は、規律逸脱による罰則が厳しく『遅延した時間を挽回する!』尼崎脱線事故の写真『罰を受けたくない!』『定位置に止められなかったことをいわないでほしい!』など運転士の精神的なプレッシャーを生み出す。『尼崎の脱線事故』はその最たる結果なのです。

自動運転で解決を…

人間が介在することでの問題点をAIの発展をきっかけに、見つめなおしてほしい。大量輸送の操縦に人の介在は本当に必要なのだろうか。たとえ完璧に教育された人間が完成したとしても、人はミスを犯します。体調の変調も起こします。時には運転以外のことを『ボーっ』と考えたりもします。人間は完ぺきではありません。しかしそれは、いけないことではないのです。なぜなら人間とは曖昧で複雑な『心』を持つからです。時に『笑い』、時に『怒り』、時に『泣き』、時に『悲しむ』。AIを通じて『人間の本質』の理解は今より進むと思います。高度な論理や高度な知識集積にしがみついていた人間は消え、『心の在り方』が問われることになります。『文責 赤羽輝久』

 

 

 

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