緊急時にドアを乗客が手動で開けられるようになったきっかけの事故(過去の痛みVol.9)
生きながらにして焼け…地獄絵図といわれた…(2019年4月24日68回忌)
1951年4月24日 桜木町事件は、電気工事作業員が誤ってスパナを落とし、吊架線をちぎり、垂れ下がってしまっていたところにパンタグラフが絡まったことが原因で、火花とともに炎上を始め、先頭車のモハが全焼、2両目のサハが半焼して焼死者106人・重軽傷者92人を出す大惨事となった。
電流遮断がなかった…
鶴見変電所の高速度遮断器が作動せず、約5分に渡って吊架線に電気が流れたままになったことも火勢を強めたとされている。また車両がとても燃えやすい素材だったこともあり数分で大きな炎が襲った。最もまずかったのは、手動で扉が開かなかったことで、乗務員や駅員すらも非常用ドアコックの位置を知らなかったこと。群衆も何もできず、乗客が焼け死んでいく姿を見守るしかなかった。
何がダメだったか…
パンタグラフに吊架線が絡みついたことで、驚いた運転士は、パンタグラフをおろしてしまった…これによりパンタグラフは横倒しになり車体と短絡し火花を発生させ火災が起きた。同時にパンタグラフをさげたことで電力供給は遮断され、自動扉は開くことができなくなった。
黙祷…
炎に包まれる熱さはいくばくか…。この痛みを心に留め置き、技術開発に勉め、次のステージへと運輸安全を進めていくことが『鎮魂』と思われます、過去の痛みを忘れないことを原動力にAI開発の公益的社会安全に努めます。
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